A Study of Lawrence's Lady Chatterley's Lover
(D. H. ロレンス『チャタレイ夫人の恋人』研究)

45期 II 類 K. A.

Introduction

本作品の筆者であるロレンスは、第一次世界大戦後の世界を「悲劇的な」世界と呼びその絶望的状況を描いている。それは、人々がお金と産業の発展のみに心を奪われ、真に生きるということを忘れてしまった時代である。クリフォード・チャタレイは大戦で下半身不随となり、肉体生活を永遠に奪われる。肉体に根付いた生き生きとした生命力をも奪われ、彼は冷たく非人間的な「セルロイド」や「ブリキ」のような人間として、まるで半分死んでいる状態のまま生き続けなければならない。彼の妻であるコニー・チャタレイ(チャタレイ夫人)もまた、クリフォードとの生活の中で生命力を失っていくが、森の中で、外の貪欲な産業世界から隠れるようにして暮らす森番のメラーズとの肉体的な結び付きによって、彼女とメラーズは、本当の生命にあふれた、希望に満ちた未来を見いだすのである。ロレンスは、本作品の中で、生命を失った「悲劇的な」時代における、新しい生命の復活という希望を模索しているのである。

Chapter 1 The Age of Lost Human Life

ロレンスは、生の根源は肉体にあるという強い信念をもっているが、彼が「悲劇的な」時代と呼ぶのは、その肉体から切り離され、精神のみで生きる人間の世界である。肉体を持たずに精神のみで生きる人間は、健康な人間らしさと生命力を失い、内の魂は死んでいく。クリフォードはまさに、その肉体と精神の分裂から生まれる悲劇の象徴的存在なのだ。肉体を持たない精神のみの生活は文明の進歩だけを求める。文明の進歩を特徴づけるものが、機械産業とお金である。人々は産業とお金にとらわれていくうちに、人間性と生命力を失っていく。クリフォードの支配する炭鉱の村でもまた、人々はまるで半分死んだようになって生きている。肉体を失い、精神のみで生きるクリフォードの内面の死は、「虚無」として現れてくる。自分の魂の中に広がっていく空虚に脅え、自分の存在に確信を持てず、彼は自分が生きているという確信を得るために作家としての名誉や、炭鉱経営者としての成功を求める。彼にとっての成功とは、内面の死、虚無を隠すためのものなのだ。つまり、彼の成功こそ、彼の虚無のしるしなのである。成功すればするほど、彼は人間らしさから遠ざかり、魂の死の影が広がっていく。彼の内なる死と非人間性は、彼が生命の源である肉体と切り離されているがゆえに永遠に続き、彼は死んだ魂をかかえたまま生き続けるという恐怖から逃れることはできない。これが、肉体を捨て去り、精神のみで生きようとする文明人たちの行き着く「悲劇的な」運命なのである。

Chapter 2 Road to Tenderness

本作品において見られる男女関係の多くは、女性による男性の支配、男性の女性への依存という形であり(クリフォードとコニーの関係、クリフォードと家政婦のボルトン夫人の関係、コニーやコニーの姉・ヒルダの男性を支配しようとする力など)、そういう男女関係は不毛であり、「やさしい」愛からはほど遠く、結局は登場人物たちの破滅や堕落をもたらす。一方、コニーは森番メラーズとの関係の中で、男性より勝ろうとする「女の意志」を捨て去り、女としての自分に目覚めていく。コニーとメラーズは、どちらの支配でも依存でもない、ただの男と女というバランスのとれた関係で結ばれるようになる。そういう関係の中で、ふたりの愛は「やさしさ」を帯びてくる。メラーズは、自分やコニーの「やさしさ」は、彼が恐れ避けている森の外の世界、機械的で冷たい狂気の世界によって壊されてしまう弱くはかないものだと思い、ふたりの未来にも絶望しかみていなかったが、このふたりの「やさしい」愛は人間的なレベルを越えて、宗教的なレベルにまで高まり、クリフォードが代表する冷たい非人間的な世界にも勝ち得る可能性を持った、強く聖なる「炎」となる。ふたりの間の「やさしさ」を武器にして、メラーズは森から出て、自分とコニーと二人のあいだに生まれてくるであろう子供の未来を信じ、外の世界に立ち向かう勇気を得る。ロレンスは、「悲劇的な」世界の中での救いとなる希望を、男女のあいだの「やさしさ」、「やさしい」愛に求めたのである。

Chapter 3 Nature: An Eternal Cycle of Life

ロレンスの作品において、自然は重要な役割を果たしている。自然との関わりが、登場人物たちの運命を握るカギなのだ。コニーは、クリフォードとの生活で、半分死んだ状態で生きるという苦しみの中にいた。つまり、生と死のあいだの裂け目、生からも死からも排除された場所で宙ぶらりんのままであった。生と死、そして新たなる生という、大いなる「自然の生命の輪」から除外された場所にいた彼女は、生と死と新たなる生のサイクル的な活動を育む場所である森の中で、森のような静けさと森のような存在感を持つ、森の精のようなメラーズと結ばれることによりその「輪」に加わり、生命を取り戻していく。「輪」の外にいた彼女が生命の「輪」に入るには、まず、死が必要であった。メラーズとの肉体的交わりによって象徴的な死を経験することによって、彼女は「輪」に加わったのである。そしてその「輪」の上で、一度死んだ彼女は新しい人間として生まれ変わり、「女」になる。「輪」の中では、死は終わりではない。死のつぎには、新たなる生がおとずれるのである。それゆえにコニーは、メラーズと交わることで再び象徴的な死を経験し、ついには人類の源である「イヴ」として生まれ変わる。「生命の輪」は、輪であるがゆえに、終わりのない永遠の可能性をもっているのである。一方、クリフォードの生命は「輪」ではなく、「直線」である。自分の生命が直線的であるからこそ、彼は自分の子供を残すことで、その生命の直線をつなげ、延ばそうとする。「直線」は、ひたすらつなげて延ばすことで、永遠になるからである。しかし、下半身不随である彼には子供を残すことはできず、だから彼は、産業の世界で「進歩」、「前進」しようという形で、「直線」を延ばそうとするのである。「永遠の生命の輪」の中で時間も世代も越えて「イヴ」になったコニーに対し、クリフォードは限りある「直線」の上を前進するしかないのである。自然と調和することは「大いなる生命の輪」に加わることであり、コニーとメラーズはその「輪」の中で、生と死と復活をくりかえして、アダムとイヴとしての生命の根本に戻り、本当の生命の喜びを知ることができる。自然とともに生きることが、生命を取り戻す方法なのである。

Conclusion

ロレンスは、男女の肉体的な交わりを通じた生命の復活を信じ、男女の交わりの中に絶望的な悲劇の時代の新しい希望を見いだした。男との温かい交わりによって女は失われ手いた命を取り戻し、その命は大いなる自然の生命に加わっているがゆえに、喜びと健康にあふれている。男は自分がただ恐れているだけだった世界に立ち向かい、未来を信じる勇気を得る。二人のあいだの「やさしさ」は、冷たく醜い文明世界をも浄化する「炎」になり、人間らしさと、自然と調和した健康な生命を取り戻した人間の、新しい世界を期待させる。絶望的世界から始まった、生命の復活という希望の模索は、男女の交わりによって、自然との交わりによって、未来への限りない可能性をもった希望にたどり着いたのである。

この卒業論文の目的は、「チャタレイ夫人の恋人」をロレンスの生命復活の模索の軌跡としてとらえ、その跡をたどることであった。ロレンスは、生きることの意味を、生きることの価値を、真剣にみつめていた作家であるように思う。この作品は、人間が幸福に生きるとはどういうことかを、ロレンスの時代だけでなく、今、現在を生きているわたしたちにも問いかけている。物が溢れて、生活は豊かになり便利になり、それで、人間は幸せだといえるのか。文明の発達と引き換えに、人間は、生命に対する喜びも、おそれも、生き生きと笑うことも忘れてしまっていないか。生きていることの喜びを感じることもできないなら、まさしくそれは、生きているとは呼べない、半分死んでいる状態ではないか。生きている喜び、充実して生きること、その答えを、ロレンスは、男女の愛、そして自然という、単純で原始的で当たり前のようだけれども、偉大なものに求めたのだろう。単純で原始的で当たり前、しかし、だからこそ、真に大切なものであり、ロレンスの強い信念が伝わってくるようである。