Wilde's Idea of Beauty and the Absolute in Mishima's Aesthetics
(ワイルドの美の観念と三島美学における絶対性)

58期 AII 類 H. Y.

Introduction

「あなたの準拠人物は?」「三島由紀夫!」即答である。質問と回答の間に些かの径庭などあろうか。三島美学に憑かれている私…。とりわけ彼が連呼する「絶対者」の意味するところが私を挑撥する。周知の如く、三島由紀夫は戦後の文壇を席巻した天才作家である。そして、彼が最も影響を受けたのがOscar Wildeであった。「私が生まれて初めて読んだ作品はワイルドの『サロメ』である」との弁はあまりに有名である。『サロメ』の美意識が三島美学の底流たることは疑いようがない。『サロメ』には美と死のエロスがコンパクトに収められているのだ。
 対して、三島作品の中で『サロメ』に中る作品は何か。『憂国』が非常に近しいものとして私には映る。両者とも短編であり、メインテーマは美と死の織り成す官能である。本論文では、『サロメ』と『憂国』の比較から、冒頭で述べた三島美学における「絶対者」、すなわち、「美的世界を掌る超越者」の真意に迫りたい。

Chapter I Nature Imitates Art

“Nature imitates Art.”(自然が芸術を模倣する)は非常に有名なワイルドの格言であり、同時に彼の美学の根幹をなす思想でもある。その真意はつまり、「芸術が自然(世俗、現実)に寄り添うのではなく、自然の側を芸術という天上界に押し上げる必要がある」ということ。(当時もてはやされた自然主義が重んじる)「自然」とは、ワイルドにとり、操作不可能な偶然性の塊に過ぎない。美のヒエラルキーにおいて、「自然」が「芸術」に先行するようなことがあってはならないのである。

Chapter II The Moon, Salome and Beauty

芸術の創造する超越性や新奇性というものは、それが生み出されると同時に別なものへと形を変えていく(“passes on to other things”)。その変化のため、芸術から生み出される美的効果といったものは決して固定したものとはなりえず、従って、人間が掴みとることのできる類のものではない。美は移ろいやすく、掴めそうで掴めないものなのである。しかしそれ故、美の新奇性は古びることなく新奇なままであり続け、その超越性は永遠性・神秘性を帯びていく。
 そういった美の特質でもって『サロメ』の作品世界を支配するのが「月」であり、主人公のサロメである。あえて言うなれば、月はタナトス。作中人物に死をもたらす絶対者である。他方、サロメはエロスの具現者として見る者を漆黒の美へと誘引する。彼女の悪魔的魅惑の先には、美の頂たる死がある。死は、瞬間的絶頂としての美に永遠性を付与する。

Chapter III Salome to Mishima

ワイルドはサロメに究極の美を見出す。美の体現という点でサロメはドリアンに勝る。ドリアンは社会性の垢にまみれ死んでいく。だが、サロメは純粋なまま殺されるのである。懸想する者の首を愛玩し、エクスタシーの極点において時間を止められるのである。それは美の極地であろう。サロメはワイルドの理想形であるはずだ。そして、そのデカダン色濃い「理想形」を種とし、大作家となったのが三島由紀夫である。
 「雷に打たれた。これこそは正に大人の本であった。悪は野放しにされ、官能と美は解放され、教訓臭はどこにもなかったのである」とは三島の『サロメ』評だ。『仮面の告白』はじめ、『サロメ』への愛着は数々の作品に散りばめられている。次項からは三島の『憂国』を扱い、ワイルドとの相違、その背後にある三島的絶対者の存在を探っていく。

Chapter IV The Absolute in Mishima's Beauty

エロスに憑かれた三島。その上昇運動における到達点としての絶対的超絶者を三島は何よりも強く希求する。彼曰く、「超絶的なもの(絶対者)がない限り、美というものは存在できない。相対的・俗的なものが跋扈する日本で美を体現するには、無理にでも『神』を復活させる必要がある」というわけである。「絶対者」は三島の文学世界の構造的基盤に相違ない。

Chapter V Excessive Purity in Mishima's Works

三島はとかく過剰と言われる。何が過剰なのか。彼の描くものは善であれ悪であれ、あまりに「純度」が高すぎるのである。不純なもの、相対的なもの、世俗に塗れたものは三島を「勃起」させない。例えば、彼の作品で降る雪は、純白かつさらさらしていなくてはならない。どろどろになった雪には、「雪」という言葉は与えられないのである。 三島は言う。「ぼくの内面には美、エロティシズム、死といふものが一本の線をなしている」。つまり、美・エロティシズムという究極に達するには、死や罪といったものが同次元で付随してくるというわけである。「死を前に幸福・エロスを感じる」という構造は、三島作品のパラダイムであり、本論文のテーマである「絶対者」の存在もそこに由縁する。

Chapter VI Lust for Eros of Martyrdom

ワイルドが夢想家であったのに対し、三島は行動家であろうとした。両者の美意識における相違はそこから生じる。三島の美へのパスポートが死であるなら、ワイルドのそれは「罪」。悪や死といった「滅亡」が美の十分条件であったワイルドに対し、三島にとってそれはあくまで必要条件に過ぎない。十分条件は、絶対者がなくては得られないものなのである。
 ワイルドの場合、キリストが絶対者ということになろう。しかし、日本にはそれがない。必然、三島は自己懲罰に向かわざるを得なくなる。というのも、三島は自身が絶対者となることを望んでおり、そしてそのためにはキリスト宜しく「殉教する」必要があるからだ。受難なきところに神話は生まれず、神話が受肉せぬ絶対者は「絶対的」存在にはなり得ない。三島を捕縛する死に対する異常ともいえる恍惚は、ここに縁由するのではないか。なれば、三島にとっての絶対者とは「死」と考えることができる。死があって初めて絶対者が完成し、同時に、絶対的なものの中へ美やエロティシズムが織り込まれていくという具合に。
 絶対者に見守られながら「月」(準絶対者)となった夢想家ワイルド。対して、三島は月ではなく、太陽を欲した。絶対者の美を享受する月ではなく、自らが「熱」を発する太陽になることを求めたのである。