|
日本教育方法学会第36回大会・自由研究10・D |
|
寺岡英男・柳沢昌一・流真名美「学習過程における認識発展と<追究−コミュニケーション編成>の展開−その一・実践記
録=伊那市立伊那小学校二年敬組『手作りのお店に夢を託して』の分析を中心に−」 |
<5>1〜2?年雅組「伊那小ハイランド」実践
◎出典
「伊那小ハイランド 一・二年」
(伊那小学校『内から育つ子ら−小学校低学年における総合学習の展開−』P.189-217 信濃教育会出版部 1980年)
→該当部分は末尾の「別紙資料」に収録
◎基本データ
*19??年−??年
*担任教師団:?
◎実践の概要
(1)4月の入学以来2ヶ月間、子どもたちは冬庭において、石づみ、泥のおだんご作り、砂遊び、石の破片でのパズル遊びなど、石や砂や土を題材とした活動
を自然発生的に展開してきた。教師はこれらが人類文化の源である石器・土器づくりに もつながっていくのではないかと期待した。
(2)一方子どもたちは遊園地やフィールドアスレチックなどでの遊びを好み、特に春の遠足で行った東小学校のジャンボすべり台に大きな印象を受けていた。
(3)6月16日、教師は子どもたちに前夜見た夢の話として、クラスの子どもたちが石や砂や土で遊んでそれを集めていたら、東小のジャンボすべり台の倍く
らい大きな山ができて、みんながどんどんすべっていたと話した。子どもたちは教師の話 に目を輝かせて反応し、それを冬庭に作るという話がまとまった。
(4)すべり台だけでなくお化け屋敷、動物園、ジェットコースターなどを作りたいという要求が出てくる中で、千里の「私がこの間行った富士急ハイランドみ
たい」という声を受けて明彦が「伊那小ハイランド」という名前を思いつき、ここから伊 那小ハイランド作りが始まった。<活動課題の成立>
(5)6月23日、教師は4月以来教室の棚に置かれていた子どもたちの作った動物や乗り物に着目し、冬庭のコンクリートにこれらの作品を置いて動物園や駅
や飛行場を作ろうと子どもたちに提案した。
(6)子どもたちは待望のハイランドが作れるとみんな賛成し、すぐに行動に移ったが、なかなかうまく作品を置くことができない。教師は子どもたちの中に何
をどこに置くかのイメージができていないと判断し、チョークで置き場所を指示したが、
そうすると子どもたちは次々教師の指示を求めて大騒ぎになった。指示されなかった作品は適当に置いてしまい、他の活
動に移っていってしまった子もいた。作品づくりはハイランドづくりを予想せずに行なわれたものであり、またすでにか
なり前に行なわれたことなので、子どもたちの関心が薄れていることも原因であろうと教師は判断した。
◎コメント
本報告では検討対象を長期にわたる学習活動の開始期だけに限定しているため、伊那小ハイランドの活動の全体としての充実ぶりを正しく評価することはでき
ないが、開始期を見る限りこの学習活動は教師の2度にわたる決定的な働きかけでセッティングされたものと性格づけることができる。すなわち「昨日の夢」と
いう形で、文字通り教師が実現したい夢を子どもたちに提案したこと、さらに懸案であった作品の処理をハイランドづくりと結合するという提案をしたことであ
る。
教師自身の夢(第1提案)は子どもたちに飛び火して、確かに子どもたち自身の夢となったが、まだ子どもたちの手で十分に練られ、深められ、熟成されたも
のにはなっていなかった。その段階で教師が第2提案を出したため、子どもたちは提案に乗りつつも、自分たちでそれを深め発展させることができず、教師の指
示を受け入れることで活動を楽しもうとした。そして十分には楽しめないまま活動から離れていく子どもも出てきたのである。
<6>春組「牛飼育」実践
◎出典
<6>-1長野県伊那小学校六年春組『はるみちゃん、ローラ、“大好き!!” 伊那小春組の子どもたちと二頭の牛との感動の記録』(1992
年)
→該当部分は末尾の「別紙資料」に収録
<6>-2百瀬司郎「牛のはるみちゃん(一年)−牛に学んだ五年間−」
(清水毅四郎編著『信州発「生活科」の実践』P.288-323 黎明書房 1992年)
◎基本データ
*1986−1991年度
*担任・百瀬司郎教諭
◎実践の概要(<6>-1)
(1)@伊那小学校にヤギが飼われていることを知ったこと、A教室の牛のポスターが貼ってあったこと、の2点が直接の契機となって、「牛を飼いたい」とい
う要求が輔君を筆頭とする子どもたちから出る。
(2)他の動物を飼いたい、牛はいやだという意見もあったが、牛を飼いたいという意見が圧倒的に多い。
(3)教師が「本物の牛を見たことがあるか?」という投げかけを行ない、子どもたちからは見たいという要求が出る。教師は
「大きいぞ」と脅かしながら、さらに子どもたちの要求をかき立てる。
(4)教師は美篶牧場のことを子どもたちに知らせる。子どもたちは「行く、行く。」と大さわぎ。学校から6キロの長い道の りを歩いて牧場へ。
(5)牧場で成牛や子牛に触れ合うことで、ますます子どもたちの牛を飼いたい気持ちが高まる。
(6)教師は牛を飼って何をしたいのかと問いかける。子どもたちは夢を語り、ますます飼いたい気持ちが高まる。
(7)学級として牛を飼うことを決定する。
(8)農協の平出さんから子牛を貸すことの許可が出る。
(9)子どもたちが校長先生にお願いに行き、許可を得る。
◎コメント
*<6>-1は「学級の記録」という形で叙述されているため、話者がぼかされているが、明らかに教師である。しかし、教師は明確な行動をとっ
た場合以外は記録の中で「黒子」的な役割をしている。だから教師の意図が直接には語られない部分も多い。よってこれを、<6>-2によって裏
付けていく(★印)。
(1)確かに最初に牛を飼う要求を出したのは子どもたちである。輔君という一人の男の子であることもはっきりしており、彼は卒業の時点で、そのことを誇り
に思っている。
(2)春組の子どもたちの入学は1986(昭和61)年。それ以前の伊那小の教育の概要は、Wの通りである。従って、春組の子ど
もたちがいち早く注目したヤギを始め「動物のいる学校生活」はすでに伊那小の学校文化として軌道に乗りつつあったと 思われる。
(3)しかし、教師の戸惑いから推測すると「1年生で牛」というのは未経験だったのであろう。
(4)教師は最初の要求が出たとき、1年生には無理だと頭をかかえている。
(5)最初は戸惑った教師であるが、子どもたちの要求の強さを知ってこれを支援する決断をした。
★4月下旬と5月14日に子どもたちの話し合いがもたれている。2回目の話し合いの後、教師は「牛が学習財となるか考 え始めた。」(P.296)
(6)教師は、<本物の牛を見たいか><牧場に行くか><牛を飼って何をするか>という問いかけによって、子どもた
ちの要求の高まりを促している。教師の指導性は確実に発揮されている。
(7)農協から子牛を借りられるようになるまでに、教師の奔走・交渉の努力があった。
★教師は学年の教師たちや農協畜産課に相談する。
|
畜産課長の平出さんは、当初驚いたが、教師の数回の訪問のなかで、「比較的おとなしい動物ですから一年生でも
ある程度の期間でしたら可能だと思います。もし飼うのでしたら、子牛をお世話します」との返事をいただくことができた。また、一番心配だったえさも援助し
ていただけることを確認できた。この時点で教師は、牛の飼育が実現できそうな感じを得た。そして学習の見通しを考えることにした(資料参照)。しかし、牛
が来たときの子どもたちの喜びは大きいと思ったが、世話のこと等の不安も大きく、教師としては複雑な気持ちであった。 |
|
1 にんげんのほね ほねがあるよ
ここから「ひらがな」の読みの学習がはじまる。(中略)教師が、探検してきたところが意外に少ないのに驚いてみせる│ と「もっとやりたい。」「二人でやったほうがいいよ。」「四人がいい。」などの声に、グループを作ってもっとくわし│ く探検することになる。元気のよい男子は教室の外へ出たくてうずうずしている。 │ そこで子どもたちにグループ作りのことを提案する。 │ 教師 どうやってグループを作ったらよいかな。 │ 典夫 二人がいい。 │ 栄介 二人じゃ探検隊なんていわないよ。 ││ ここで「探検隊」ということばが生まれる。隊長も必要だということで決めることになる。隊の人数は、いろいろもめ│ たが、四人と五人の隊にすることに落ち着いた。 │ ところが、どのように決めていくかの段になると、まだよく知らぬ相手、名前も定かでない相手では決めようがない。│ 信史の考えた「すわっている順序に四人ずつ決めていく。」ことになる。探検隊の編制で友だちの氏名もだいぶ覚えてき│ た。教師も顔と名前がようやく一致するようになる。 │ 隊長は、みるからに力と口の強そうな者がなった。隊が編制されたところで自分の探検隊に名前が欲しいという。これ│ は必要感があってでてきたアイディアではなく、幼稚園、保育所時にグループには必ず名前があったところからでてきた│ ものらしい。 │ (中略) │ 各班ともグループとして話し合うのは、はじめてである。(中略)……午前の学習が終了する頃、ようやく各班からの│ 「探検隊名」の発表段階になる。 │ (後略) |
|
(1) ともがき広場に はやく行こうよ |
|
(1)忍者になろう |