品詞分類とドイツ語の副詞

井口 靖

(三重大学人文学部文化学科紀要11号 1994年 71ページ〜87ページ)


要旨

近年の研究では副詞の中から心態詞(Modalpartikel)や話法詞(Modalwort)のようなものが取り出され、独立した品詞として扱われるようになった。心態詞や話法詞と他の副詞、不変化詞との境、および心態詞と話法詞の境に焦点を当て、そこには必ずしも明確な境界線は引けないことを指摘する。それは、それらを特定のカテゴリーに分類しようとすること自体に無理があることを意味している。


内容

1.品詞分類における副詞

1.1.副詞の定義

1.2.品詞分類−「神の真理かホーカス・ポーカスか?」

2.副詞の全体像

3.副詞分類の問題点

3.1.心態詞

3.2.心態詞と他の副詞・不変化詞

3.3.話法詞

3.4.話法詞と他の副詞

3.5.心態詞と話法詞

4.副詞の記述と品詞分類

参考文献

例文出典


1.品詞分類における副詞

1.1.副詞の定義

 文法を書こうとするときにどうしても避けて通れないのが、語のグループ分け、つまり品詞分類である。文法が語の変化と並べ方、つまり形態論と統語論を扱うものであれば、どんなタイプの変化をするか、文においてどんな位置に現れるかで分類しようとするのは当然のことと言える。

 その意味ではこの論文のテーマである副詞というグループはやっかいである。形態論的には、ドイツ語の副詞は一部は比較変化をするが、名詞や動詞のような文法的な語形変化はしない。語形変化するかどうかで、名詞・動詞・形容詞・冠詞#1とその他が区別できるだろうが、語形変化しないグループとして、前置詞、接続詞、感嘆詞、そして副詞がひとかたまりとなる。これが大きな意味の不変化詞である。これから先を分類しようとすれば、統語的手段に依らざるを得ない。接続詞は定動詞との位置関係、前置詞は名詞との支配関係で定義できそうであるから、それらを取り除いたものが、副詞と感嘆詞ということになろう。感嘆詞は文構造に含まれないと考えられるから、それ以外が副詞ということになる。

 ラテン語adverbiumが示すように、副詞は伝統的には「動詞の意味を修飾する」(三浦/小野寺 1958: 110)ものというように定義されることが多かったが、これは副詞とされるすべての語に当てはまるわけではない。形容詞や副詞を修飾するのは自明のことだとしても、der Mann dortのように名詞を修飾したり、nur, auchのように文のさまざまな要素を修飾したりするものもある。あるいは文副詞(Satzadverb)という用語も用いられるように、文全体を修飾するものもある。

 そのようなわけで、ドイツ語では副詞を形態的、統語的に積極的に定義することは困難であると言ってよい。文法書においても副詞のとらえ方はさまざまである。ただ、近年では従来の副詞をいくつかの品詞としてとらえようという試みが多い。

 たとえば、Engel(1991: 17ff.)は、次にように順番に定義しながら語を取り出していく。活用する→動詞、恒常的性を持つ→名詞、ザクセン2格と置き換えられる→限定詞(冠詞類のこと)、常に限定詞と名詞の間に立つことができる→形容詞、名詞句と同じ環境に立つ→代名詞、特定の格の名詞と共に使われる→前置詞、定動詞を文末に移動させる→従属詞(Subjunktor)。

 さらに残ったものは、文頭の要素となりえるかどうかでふたつに分けられる。文頭の要素になりえるもののうち、補足疑問文の答となるものが副詞(Adverb)とされ、決定疑問文の答となるものがModalpartikel(これはいわゆる「心態詞」ではなく、ふつうはModalwortとされるもの)、疑問文の答とならないものがRangierpartikel(これもふつうはModalwortとされるものの一部)とされる。また、文頭の要素にならないもののうち、同種、同等の要素を結び付けるものが、並列接続詞で、それと文頭要素の間に立つことのできるものが「とりたて詞」(Gradpartikel)で、コプラと共に使われるのがコプラ詞(Kopulapartikel; leid, losなど)で、動詞文(Verbalsatz)と同じ環境で使われるものが文相当詞(Satzaequivalent)である。以上すべてにあてはまらないもののうち、話し手の態度を表現するものが心態詞(Abtoenungspartikel)で、そうではないものが「その他」(Restmenge)とされる。

 Engelの分類は複雑で、形態的基準、統語的基準、そして心態詞を分類するためには意味的基準まで動員する。そして、伝統的な副詞は、「副詞」、Modalpartikel, Rangierpartikel、とりたて詞、コプラ詞、文相当詞、心態詞、「その他」に相当する。

1.2.品詞分類−「神の真理かホーカス・ポーカスか?」

 従来の副詞をEngel(1991: 17ff.)のように細かく別の品詞に分類しようとすれば、上のように複雑な過程を経なければならなくなるだろう。Engel(1991: 17)は上のような品詞分類に先立ち、品詞というのは自然に存在したり、人間の思考の中にあるものではなく、文法家によって定義されるべきものであると明言している。つまり、上のような分類は単に文法記述のための手段にすぎないということを認めていることになる。

 これは品詞分類をどのようにとらえるかという問題と関わっている。つまり、「記述されるべき品詞体系とは人間の認識体系の反映とみるべきか?それとも規則の遊びによって記述という目的のために創り出されるものなのか?」(在間 1980: 51)という問題である。さらにこれは文法記述をどうとらえるか、つまり何のために言語研究を行うかという、研究者にとっては根本的問題となるものと関わってくる。それは「言語学者が言語を分析しているとき、彼はすでに『そこ』にあり、記述されるのを待っているような言語的事実とかかわっているのであろうか?(神の心理)それとも単に一連の規則をもてあそんでいるのであろうか?(ホーカス・ポーカス)」(在間 1980: 51)という問題である。

 Engel(1991: 17ff.)のような分類が自然に存在したり、人間の頭の中に存在したりするとは考えにくいのは、私たちが直感として納得できるものではないからである。それでは品詞分類というのは言語学者が作りだした架空のものにすぎないと言いきれるのだろうか。ごくごく素朴に考えると、動詞や名詞や形容詞といったような品詞はまったく実体を持たないものでもないように思われる。たとえば、人称に応じて変化させ、平叙文ではそれを2番目に置くという操作は、その語が動詞というグループにあるということを知っているからできることであろう。理論的に立場が違っても、動詞や名詞や形容詞などを立てない文法はないであろうから、少なくとも動詞や名詞は直感的に実在すると考えられているのではないだろうか。ただし、ドイツ語の場合、変化しないものになると途端に分類方法がばらばらになる。そうすると不変化詞の中をそれ以上に分類することは「ホーカス・ポーカス」でしかあり得ないのではないかという気がしてくることも確かである。

 ここでの基本的な立場は言語の事実を記述するということである。それは事実を記述しなければその奥にある言語の実体には迫れないと考えるからである。そうすると、今直面する問題は、事実としては品詞分類はどのようになっているのかということであり、副詞に関して言えば、副詞内の分類は事実としてはどのようになっているのかということである。ここではドイツ語全体の品詞分類を取り扱うことは到底できないので、副詞の中は事実としてどのようにグループ分けされているのか(あるいはされていないのか)を探ることにする。ここではとりあえず副詞は大きな意味の不変化詞から前置詞、接続詞、感嘆詞を取り除いたものとしておく。

2.副詞の全体像

 副詞の一応の概観を示すと次のようになる。ここでこれらの分類を主張しているわけではない。一般的な副詞の分類を示したにすぎない。用語は一部独自のものを用いている。

 ここでは広い意味で「副詞」という用語を使っているので、一般に副詞として思い浮かべる場所の副詞、時の副詞、様態の副詞などをまとめて「一般副詞」と呼ぶことにしよう。場所の副詞は厳密には動作が行われたり、静止している場所を示すものと、運動の方向を示すものがある。一般副詞の中の分類は意味的なもので、これ以外に因果の副詞(Kausaladverb)や譲歩の副詞(Konzessivadverb)などを立てることもある#2が、これらは接続副詞として別にされることも多い。

 疑問副詞、代名副詞などという分類も一般的になされるが、これは意味的には場所、時間、様態などを表わすわけで、厳密に言うと分類がクロスしていることになる。関係副詞は接続詞でもあるが、関係文中の補足成分になることもできるので、副詞でもあるという二重の性格を持つ。

 近年注目を集めているのは、Modalpartikel(あるいはAbtoenungspartikel),Modalwort, Gradpartikel(あるいはFokuspartikel)という3つの語群である。Modalwort以下のものには Adverb という語がついていない。つまり、伝統的には副詞であり、現在でも大多数の辞典では副詞に分類されているものであるが、Helbig/Buscha(1986), Engel(1991)などの近年の文法では副詞とは別の品詞としてとり扱われている。

 Modalpartikelに対して「心態詞」という用語はかなり定着しているし、Modalwortに対する「話法詞」も文法書や論文で使われることが多い。nur, auch, sogarなどのGradpartikelには定訳がないが、Gradという語とこれら語の機能との関連はあまりなさそうであるし、またFokuspartikelという用語も、焦点化ということはその機能の本質ではないと考えられる。ここでは日本語学の沼田(1992)などで使われている「とりたて詞」という用語を用いておく。今のところもっとも実態を表現しているように思われるからである。

 Gradpartikelに近い sehr, ziemlich, ganzなどのIntensivpartikel(またはSteigerungspartikel;程度詞)や決定疑問文の答に使われるja, doch, neinのAntwortpartikel(応答詞)、nichtのNegationspartikel(否定詞)なども一般には副詞扱いである。その他のものとして、たとえば、zu不定詞のzuも副詞とされる。というより、副詞にするしかないのであろう。副詞が「ごみ箱」「がらくた置き場」と言われる所以である。(Helbig/Helbig 1993: 12参照。)

 以下では近年注目されている心態詞、話法詞を中心に副詞の内部を調べていく。それとの関連で他の副詞及び他の不変化詞にも言及される。その前に、ここで扱う心態詞・話法詞と他の副詞とのおおざっぱな分類的位置づけを示しておくことにする。これは決して結論的なものではなく、話を進めるに当たって心態詞、話法詞というもののイメージを共有しておくためのものである。

 Helbig/Helbig(1993: 31)が、話法詞は文肢以上であり、心態詞などのPartikelを文肢以下であると性格づけるが、確かに、話法詞の単独で文の代わりにもなるという、自立性のようなもの(これを「文価」Satzwertとしよう)がその中心的な統語的性質であるということは確かである。これに対して、一般副詞は文価は持たないが、単独で文肢(Satzglied)となる。これを「文肢価」Satzgliedwertとしよう。心態詞、程度詞、とりたて詞は文肢価も文価も持たない。ただ、程度詞やとりたて詞は他の要素と共に文肢を形作るが、心態詞は他の要素と共に文肢を作るわけではない。よって、心態詞を文肢以下のものと呼ぶのは適切でないだろう。以上をまとめると次のようになる#3。かっこ内は代表例である。

非文肢価
文肢価
文価
他の要素と共に文頭に置ける
単独で補足疑問文の答となる
単独で文頭に置ける
単独で決定疑問文の答となる
一般副詞(heute)
話法詞(vielleicht)
心態詞(doch)
程度詞(ganz)
とりたて詞(nur)

3.副詞分類の問題点

3.1.心態詞

心態詞とされるものは必ず同じ形でありながら別の副詞(あるいは他の品詞)とされる語を持っている。心態詞は文においてはじめて存在するものであり、本来は語としてあげても意味がない。ただ、ここではスペースの関係上、心態詞のすべての用法を文の形であげるわけにはいかないのでやむを得ず語のままあげておくことにする。後でも述べるように何を心態詞とするかについては異論があるから、リスト自体が一つの例にすぎない。

aber, auch, bloss, denn, doch, eben,einfach, etwa, erst, halt, ja, mal, nur, ruhig, schon, vielleicht, wohl (Weydt/Hentschel 1983)

 「心態詞」は比較的新しい概念で、近年の文法書には取り上げられることも多いが、辞典に品詞として採用されることはいまだにまれと言えよう#4。そこで何を心態詞とするかについても、定義の仕方によってその範囲はさまざまで、一般によく用いられる単純な基準としては、(1a)のように一語で決定疑問文の答にならない、あるいは(1b)のように単独で文頭に置けない、などがあげられる。文アクセントについては見解が分かれ、たとえばThurmair(1989)のように文アクセントを持つ(2b)のdennのようなものは心態詞に加えないとする人もある。ただしそのThurmair(1989: 22)もアクセントのあるja, bloss, nurは例外的に認めている。

 (1a) Kommt er? − *Aber. *Denn.

 (1b) Er kommt ja zu spaet.→ *Ja kommt er zu spaet.

 (2a) Wie h'eisst er denn?

(2b) Wie heisst er d'enn?

 場合によってはeigentlich, immerhinなどが心態詞に含められることもあるが、そうすると、文頭に置けないとか、単独で用いられないなどの心態詞の基準が崩れてしまう。

 

(3a) Eigentlich hat er recht.

(3b) In Mathematik ist er gut. - (Na,) immerhin!

 そこでこれらをWeydt/Hentschel(1983: 18ff.)のように「心態詞に類似した機能をもつもの」、あるいはHelbig(1988: 36f.)のように「広い意味の心態詞」「心態詞的なもの」とせざるを得ない。ここでは「準心態詞」としておこう。具体的には次のようなものである。

Weydt/Hentschel(1983: 18ff.)による:

 allerdings, eh, immerhin, jedenfalls, ohnehin, sowieso, ueberhaupt

Helbig(1988: 36f.)による:

schliesslich, immerhin, jedenfalls, ueberhaupt, allderdings, eigentlich

 前に心態詞の基準として、単独で文頭に置けないとか、決定疑問文の答に単独では用いられないということを述べたが、実はこの基準も無意味であることが多い。それは、心態詞の中には疑問文でしか用いられなかったり、感嘆文でしか用いられなかったりするものがあり、それらについては、そもそもそれを文頭に置いたり、文の中から取り出したりすることができないからである。よって、実際には心態詞を客観的に定義できる基準はないと言ってよい。

3.2.心態詞と他の副詞・不変化詞

 心態詞を取り出す客観的基準がないとすれば、何を心態詞とするかについて異論があるのは当然であるし、またその他の副詞、あるいはその他の不変化詞との境界が曖昧になるのも当然のことである。

 (1a)で心態詞は単独で決定疑問文の答にならない例をあげたが、実はそこにja, dochを使うと(4a)(4b)のように可能な対話になる。また、(1b)でもdochを使うと(4c)のように可能な文ととなる。

 (4a) Kommt er? − Ja.

 (4b) Kommt er nicht? − Doch.

 (4c) Doch kam er nicht.

(4a)(4b)のようなja, dochはHelbig(1988: 117f.)では応答詞とされる。(4c)のdochは単独で文頭に立っているので、接続副詞のdochとされる。これは文中でも使われる。

(4d) Es war ihm verboten zu schwimmen,  er hat es doch getan. (Helbig 1988: 119)

文中に使われたdochは心態詞のdochと区別しにくい。接続副詞のdochには文アクセントが置かれ、心態詞としてのdochには文アクセントが置かれないとされる。(Helbig 1988: 119)

 (4a)〜(4d)のjaやdochは心態詞とは扱われないが、なぜ心態詞でないのかというと、それは単独で答に用いられたり、単独で文頭に立っているからだということになる。つまり、あらかじめすべて別のjaやdochであるという前提から出発しているからである。一般的になされているdochの分類と分布を整理してみると次のようになる。
文肢価
文価
文頭要素の前に置ける
単独で補足疑問文の答となる
単独で文頭に置ける
単独で決定疑問文の答となる
心態詞
接続詞
接続副詞
応答詞

 上の表をみる限り、dochはきれいな相補分布をなしている。これは、その位置によってそれぞれの機能を持つことを意味している。音韻論では、相補分布をなしている音は一つの音素とされる。それはichとachのchの音のように置換不可能であり、そのためその対立によって意味の違いを引き起こすことはないからである。(Trubetzkoy 1977: 30ff.参照)

 そもそもいくつかのjaやdochがあるとしたらそれは直感的に意味に根ざすものであったはずだ。ところが近ごろでは、Weydt/Hentschel(1983)にしろ、Helbig(1988)にしろ、心態詞とその同音語(たとえば、心態詞のdochと接続詞、接続副詞、応答詞のdoch)の間には意味の共通性があるとしている。たとえば、Weydt/Hentschel(1983: 9)ではdochのuebergreifende Bedeutungは次のように書いてある。

Allen Vorkommensweisen von doch (Homonyme, betontes und unbetontes doch) ist die semantische Komponente Adversativitaet gemeinsam. Diese Komponente ist in allen betonten Faellen (Konjunktion, Antwortpartikel und Adverb) besonders deutlich erkennbar; im unbetonten Gebrauch ist sie auf das Anklingen eines mitverstandenen Gegensatzes reduziert.

これは心態詞とその同音語はひとつの語であるという直感に根ざすものであろう。

 近年の試みは副詞内を整理してそれから新たな品詞を立てることであった。もちろんそれによってさまざまなことが明らかにされてきた。ところがそれとともにdochがいくつもの品詞に分類されることになってしまった。文法記述という点でそれが効率的かどうかという問題は別にして、ここでは言語の事実という観点から、いくつものdochがあるということが認められるのかどうかということが検討されなければならない。

 結局はdochと同じ現象なのであるが、一般副詞の中には時として心態詞のような使われ方がされるものがある。たとえば、nochはふつう心態詞としてあげられることは少ないが、有名な(5a)のような例がある。

 (5a) Wie hiess er noch? (Iwasaki 1977: 63)

次のような例も同様である。

 (5b) Wie hiess er schnell? (Iwasaki 1977: 69)

 (5c) Wie hiess er schon gleich?(Iwasaki 1977: 71)

 (5d) Wie hiess sie doch rasch, Lola? (Bublitz 1978: 108)

 (5e) Wer ist denn das wieder? (Frisch, M.)

schnell, gleich, rasch, wiederなどは本来副詞(あるいは副詞的用法の形容詞)とされるものだが、ここでは心態詞的に用いられている。それぞれもとの意味を保ちながらも、それ自体は前面に出てきていない。たとえば、(5a)のnochは「まだそれを覚えているはずなのに」という話し手の気持ちを表わし、(5b)(5c)のschnell, gleichは「早く思い出せ」という話し手の気持ちを表わしているという。(Iwasaki 1977: 69) (5d)(5e)も同様に解釈できる。心態詞と一般副詞との境は流動的であると言えるだろう。

 その語の意味が前面に出てくるかどうかということはアクセントと関係している。Weydt(1986: 394f.)は(6)〜(9)のようなペアを挙げている。(訳は井口)

 (6a) Wie h'eisst er denn? (彼の名前は何なんですか?)

 (6b) Wie heisst er d'enn?  ([ハンスでなければ]それじゃ彼の名前は何だと言うんだ?)

 (7a) Wie h'eisst er eigentlich? ([別の話をしていて]ところで彼はなんていう名前だっけ?)

 (7b) Wie heisst er 'eigentlich? (彼は本名は何だい?)

 (8a) Es r'egnet doch. ([散歩に行くって言うけど]雨が降ってるよ。)

 (8b) Es regnet d'och. (やっぱり雨が降っていますね。)

 (9a) Das ist wohl P'eter. (それはペーターでしょう。)

 (9b) Das ist w'ohl Peter. (それは確かにペーターなんです。)

 文アクセントを持ったdennはそれまでの仮定が否定される発言があり、「それなら正しいことは?」と問うときに多く用いられるようだ。文アクセントのあるeigentlichは文字どおり「本当は」という意味を表す。また、文アクセントのあるdochはある事態を否定するような前提があり、それが覆されたときにときに用いられるという。これについては関口(1954: 202ff.)が「やっぱり」という訳語を与えている。wohlは文アクセントがあるかないかでまったく逆の方向付けをする。文アクセントのないwohlは推量を表現し、その命題内容の有効性に制限をつけるのに、文アクセントを持つと命題内容の事実性を裏打ちする形になる。きわめて大ざっぱに言うと、文アクセントと共にかなりその語自体の意味が前面に出てきて、日本語にも訳しやすくなると言える#5

 Hentschel(1983: 48f.)は、文アクセントのない心態詞は文のレーマの前に置かれ、レーマに作用するのだと言う。たとえば(10)では心態詞は[ ]の位置に置くことが可能だが、それはどこでもよいということではなく、どの要素がレーマになるかによって置かれる位置が違うという。

 (10) Frau Neumann hat [ ] gestern [ ]ihrer Tochter [ ] das versprochene Fahrrad [ ] geschenkt.

(11)は不定冠詞や不定の名詞句の後に心態詞が置かれたものである。これらはふつうはレーマとなるので、その後に置くことはできない。(Hentschel 1983: 47)

 (11a) *Er hat ein Auto doch geklaut.

 (11b) *Ich habe viel Geld doch mitgenommen.

 (11c) *Er ist durch pausenloses Dazwischenreden doch aufgefallen.

 (6)〜(9)の例からもわかるように、心態詞自体が文アクセントを持ったときには心態詞以外の要素については先行する状況で何らかの形で情報が与えられている。むしろ、心態詞が文アクセントを持つときには心態詞自体が伝達する価値のある情報を持っていると言える。文アクセントのないときには心態詞は伝達上はいわゆるレーマの陰に隠れて、わき役的な要素である。

 以上見てきたように、心態詞とその同音語とされるものを別の語と考えることは妥当ではないだろう。もちろん記述上の手段としていくつかの語と扱うことはできるかもしれないが、言語事実としてはひとつの語がさまざまな環境でさまざまな機能を持って現れるのだと考えるべきであろう。また、今は心態詞とはされていない語も心態詞として使われることがないとも限らない。

3.3.話法詞

 話法詞は心態詞よりは意味がとらやすいので、意味によって分類することが可能である。ここではHelbig/Buscha(1986: 507f.)などをもとに次のように整理しておこう。もちろんすべての語をリストアップしているわけではない。

事実判断の話法詞:

bestimmt, gewiss, moeglicherweise, offenbar, offensichtlich, sicher, sicherlich, vermutlich, vielleicht, wahrscheinlich, womoeglich, zweifellos, zweifelsohne ...

事実主張の話法詞:

freilich, natuerlich, selbstverstaendlich, tatsaechlich, wahrhaftig, wirklich...

価値判断の話法詞:

aergerlicherweise, bedauerlicherweise, enttaeuschenderweise, erfreulicherweise, erstaunlicherweise, gluecklicherweise, gottlob, leider, ungluecklicherweise ...

主語指向の話法詞:

dummerweise, freundlicherweise, klugerweise, leichtsinnigerweise, vorsichtigerweise ...

beschaemenderweise, guenstigerweise, nuetzlicherweise, vergeblicherweise ...

 話法詞というグループを立てる場合、Helbig/Buscha(1986: 501ff.)では9、Helbig(1984: 108f.)では15もの統語的な基準をあげているが、(12a)のように単独で文頭に立てるか、(12b)のように単独で決定疑問文の答になるかどうかが基準とされることが多い。なお、話法詞は(12c)のように補足疑問文の答にならないが、これは疑問詞で問うことはできないことを示している。

 (12a) Er kommt wahrscheinlich morgen.   → Wahrscheinlich kommt er morgen.

(12b) Kommt er? - Vermutlich.

(12c) Wie kommt er? - *Vermutlich.

 ところが、Engel(1991: 762f.)はこれらを単独で決定疑問文の答になるModalpartikelと単独で決定疑問文の答にならないRangierpartikelという二つの品詞に分けている。これによるとたとえばleiderはModalpartikelであり、bedauerlicherweiseはRangierpartikelということになる。また、逆に、bedauerlicherweiseとjedoch, wohlが同じグループになり、直感的には納得しにくいものとなっている。そもそもこの基準のみで分類することにどれほどの意味があるのかが疑問である。

3.4.話法詞と他の副詞

 Engel(1991: 20)が一般副詞と話法詞を区別するときに使う基準に補足疑問文の答となるかどうかということがある。これは言いかえると、補足疑問文で問うことができるかどうかということである。一方、話法詞の意味的な特徴としては、話し手の判断の表現であるということがあげられる(たとえばInokuchi 1991:140;井口 1992: 26ff.; Helbig/Helbig 1993: 26ff.を参照)。また伝達上はそれ自体が主張の中心となるのではなく、伝達上は付加的な機能を果たす。話し手自身の判断や伝達の中心にならないものを補足疑問文で問うことはない。よって、補足疑問文で問えるかどうかを分類の基準とすることもまったく分類のためのでっちあげということもできない。ただし、そのように分類されて話法詞とされるものの中には疑問の焦点となるものもある。

 たとえば、wirklich, tatsaechlichのようなものは補足疑問文で問うことはできないが、決定疑問文の焦点になることができる。あるいは、これは人によって認容度に差が出るのだが、sicher, bestimmt, gewissも疑問の焦点になることがある。このような場合には話し手の判断の表現とは言えない#6

 (13a) Hast du mich tatsaechlich/wirklich gesucht?

 (13b) Hast du sicher nicht zuwenig geschlafen? (Zifonun 1982: 48)

 (13c) Irren Sie sich ganz bestimmt nicht, Herr Steinhoevel? (Kaestner, E.)

 (13d) Bist du es auch gewiss nicht gewesen? (Dieling 1985: 210)

 これらのうち、wirklich, tatsaechlichは単独で決定疑問文の答にならないが、sicher, bestimmt, gewissは決定疑問文の答になる。

 (14a) Kommt er morgen? - *Wirklich./*Tatsaechlich.

 (14b) Kommt er morgen? - Sicher./Bestimmt./Gewiss.

なお、(15a)(15b)のようにwirklich, tatsaechlichは他の話法詞の作用域にはいる。一方(15c)のようにwahrscheinlichはvielleichtといっしょには使えない#7。ここでもwirklich, tatsaechlichは話し手の判断の表現ではないことを示している。

 (15a) Vielleicht hatte er wirklich nie mehr Zeit.(Ende, M.)

 (15b) Vielleicht sind die Landepisten tatsaechlich verstopft. (Clement/Thuemmel 1975: 73)

(15c) *Vielleicht kommt er wahrscheinlich.

以上のようなことから、wirklich, tatsaechlichは自立性が弱く、また少なくとも(15a)(15b)のような表現では話し手の心的態度を表現しているとは言えない。そうすると、wirklich, tatsaechlichは話法詞というよりもその他の副詞とすべきなのだろうか。次のような例ではwirklichはsehr, ganzなどの程度詞の機能に近づいているようにも見える。たとえば、(16a)では意味としては、そのカマンンベールがausgezeichnetと言うにふさわしいことを表わしてはいるが、現実にはausgezeichnetを強めることになると思われる#8

(16a) Der Camembert war wirklich ausgezeichnet. (Simmel, J.M.)

(16b) Ich dachte, dass ich noch nie im Leben wirklich gluecklich gewesen war. (Simmel, J.M.)

(16c) Ich habe wirklich sehr viel mit Kindern zu tun. (Simmel, J.M.)

 それでもwirklichは(16c)にあるようにsehrなどの程度詞よりもより広いスコープを持っているし、平叙文ではそれがなくても命題内容は変わらないという点では話し手の心的態度のようなものも感じられる。よって、wirklich, tatsaechlichは話法詞だとしても、程度詞や様態の副詞よりのものということになるだろう#9

 一般副詞が心態詞として用いられることがあるように、一般副詞や形容詞が話法詞のように用いられることもある。関口(1966: 22f.)は次のような例をあげ、「その文を口にする人の意見が露骨に表面に現れるような訳語でおしえた方が・・・結局はいちばん有効」と述べている。(訳も関口)

 (17a) Sie gehen besser zum Arzt.

 それよりお医者さんのところへおいでになった方がおよろしいでしょう。

 (17b) Am besten gehen Sie zum Arzt.

いちばん好いのは医者におかかりになることですね。

 井口(1987: 222f.)があげている次のようなlieberも同様であろう。

 (18a) Hilf mir lieber aus der Patsche!   (Kaestner, E.)

 (18b) Geben Sie lieber auf die Banditen Obacht! (Kaestner, E.)

 (18c) Oder sag lieber nichts, sonst tobt er nur, aber hab acht auf ihn. (Frisch, M.)

Iwasaki(1972: 103)には次のような例がある。

 (19a) Das kannst du gern tun.

 (19b) Diese Bitte kann ich ihm schlecht abschlagen.

このgern, schlechtも話し手の心的態度の表現と考えられる。Helbig/Helbig(1993: 39)の次の例ではgluecklichが「彼らが幸せだ」という意味とgluecklicherweiseという2通りに解釈できるという。

 (20) Die jungen Leute sind jetzt gluecklich verheiratet.

これらの例では客観的な動作の様態などを表わす語が話法詞として機能していると言える。

 以上のように話法詞もその周囲と明確な境界で区分できるようなグループではないようだ#10

3.5.心態詞と話法詞

 以上、心態詞とその他の副詞・不変化詞および話法詞とその他の副詞の境界部分を見てきた。最後に心態詞と話法詞の境に焦点を当ててみよう。

 ここではまずwohlを取り上げることにする。今は推量を表わすwohlに限って話を進めるが、wohlは文法家によって心態詞に含められたり、話法詞に含められたりする。wohlは統語的に分類するなら心態詞であろう。それは、(21a)のように単独で文頭には立たないし、(21b)のように決定疑問文の答にならないからである。wohlは文肢価も文価ももたないことになる。

 (21a) *Wohl kommt er.

 (21b) Kommt er morgen? - *Wohl.

ただし、他の心態詞と違って他の要素と共に文頭に置かれることはある。dochはこの位置では接続詞となるはずだ。

 (22a) Wohl deshalb hat es sich auch eingebuergert, in dieser weiten Kategorie zu differenzieren, ... (Heringer, H.J.)

  話法詞も実はこの位置に現れることがある。 

 (22b) Moeglicherweise deshalb fand der Berliner Chirurg Emil Buecherl in Bonn ein offenes Ohr, ... (Clement/Thuemmel 1975: 74)

 wohlはこの点では統語的に話法詞と共通点があるが、それよりもwohlはvermutlichやwahrscheinlichの意味に類似しているため、直感的には話法詞に入れたいということがあるのであろう。それはたとえば Er kommt vermutlich.のvermutlichの代わりにwohlを使おうか、vielleichtを使おうか、wahrscheinlichを使おうかというように、他の話法詞と一種のパラディグマティックな関係を作るということである。それに対して、wohlの機能を他の心態詞と比べるとwohlは異質な存在に見える。wohl以外に推量のような意味を持つ心態詞はない。wohlが異質だというのは直感的な言い方ではあるが、図らずもwohlの分類にはnative speakerの直感というものが垣間見られるような気がする。

 wirklich, bestimmtなどが疑問の焦点になる以外は、話法詞はふつうは疑問文には用いられない。そうすると(23)のようにwohlが疑問文に用いられることが話法詞でないとする根拠とすることもできる。

 (23) Aber duerfte ich Sie wohl begleiten? (Simmel, J.M.)

それは、心態詞の中には(24)のように疑問文に用いられるものがある、というより、疑問文ではじめてその機能を持つものがあるからである。

 (24a) Haben Sie auch nichts vergessen?

 (24b) Wo habe ich bloss meine Brille?

 (24c) Wo kommst du denn her?

 (24d) Ist es etwa schon so spaet? (Weydt/Hentschel 1983)

しかし、話法詞とされるものの中にも疑問の焦点ではなく疑問文で用いられるものがある#11

 (25a) Hast du zu Hause vielleicht keine Angst davor? (Ende, M.)

 (25b) Kannst du eventuell mithelfen?    (岩崎/小野寺 1969: 219)

 (25c) Ist dieser Brief moeglicherweise der Grund fuer Ihr seltsames Verhalten? (Thurmair 1989: 15)

ただし、vielleichtなどは決定疑問文には用いられるが、補足疑問文には用いられない#12。 これに対して、wohlは補足疑問文に用いられることがある。これはwohlの「意味の空洞化」(岩崎 1988: 14)とでも言うべきものによるのだと思われる。

 (26a) *Wann kommt er vielleicht an?

 (26b) Was waere dann wohl ueber mein Leben zu sagen? (Simmel, J.M.)

なお、岩崎(1988: 15)は「wohlが心態詞であるとしても、他の心態詞とはかなり毛色の違った、いわばModalitaetspartikelともいうべき特殊なものということになるだろう」としている。

 wohlはいわば心態詞と話法詞の隙間にあるような存在であるが、心態詞と話法詞の両方に顔を出すものにvielleichtがある。心態詞のvielleichtの用法とは次のようなものである。

 (27a) Der hat vielleicht einen Bart!

 Brausse(1992: 231)によると次のような例ではvielleichtは不確かさを表わすのではなく、むしろ確かさを表わし、皮肉の意味あいを持って用いられるという。そして、(27c)の場合には Ihr habt auf jeden Fall keine Ahnung! で書き換えられるという。

 (27b) Ich hab vielleicht einen Hunger!

 (27c) Ihr habt vielleicht eine Ahnung!

(27a)はWeydt/Harden/Hentschel/Roeler(1983:16)によるとaberを使った場合にはひげの多さに驚いているが、vielleichtを使った場合にはひげの形に驚くのだという。また、Thurmair(1989: 193)によるとvielleichtは多くの場合否定的文脈で用いられるという。

 これは、事実であることが前提となる感嘆文において、本来は確信の持てないことを表わすvielleichtが用いられると、文としては「信じられないような事実」という意味になるためであると仮定することができよう。ここでもいくつものvielleichtがあるというよりも、感嘆文と結びついて心態詞的機能が出てくる、平叙文と結びついて話法詞的機能が出てくると考えるべきであろう。文法家によって心態詞とも、話法詞ともされる疑問文中のvielleichtの機能は疑問文の機能と一体化している。他の話法詞にはこのようなことがないわけであるから、vielleichtに内在する意味がこの多彩さを生み出しているとは言えるだろう。

 以上見たように、話法詞の中も心態詞の中も決して均質ではなく、wohlやvielleichtのようにその中間に位置する、あるいは両方にまたがるものもある。心態詞にしても、話法詞にしても文の中においてはじめて存在するものであることは確かである。

4.副詞の記述と品詞分類

 以上は副詞内の分類に関していくつかの問題点を指摘したにすぎない。近年の試みは副詞内を整理してそれから新たな品詞を立てることであった。ところがそれとともにひとつの語がいくつもの品詞に分類されることになってしまうという事態を生み出した。ドイツ語の不変化詞については、どんなカテゴリーを立てるにせよ、ある語がひとつのカテゴリーに納まりきるものではないと言える。たとえ、カテゴリーに分けたとしても、カテゴリーとカテゴリーの間は明確に区切れるものではない。言語の事実を記述するということから考えると、カテゴリーに分類するということ自体に無理があるのではないだろうか。外界の事物が連続体をなしているように、言語内の単位も連続体をなしていると考えるべきであろう。

 土屋(1993:75f.)は、ひとつの語をいくつかの品詞に分けて意味記述する辞書は、たとえば鯨を哺乳類と魚類で記述するようなもので、普通のものと比べると奇妙なものだとし、品詞について次のように述べている。

「単語を品詞という概念によって特徴づけることは可能であっても、それは『分類』的な概念ではない。したがって、品詞のそれぞれをどのように特徴づけるかという問題は、相互に排他的な分類範疇のどれかに所属させるという問題ではなく、『品詞』という不思議な属性を利用してひとつひとつの単語の性格を表現するということである」

 これはまさにドイツ語の副詞に当てはまることであろう。ドイツ語の副詞はひとつの語がさまざまな機能を持って現れる。もし、文法や辞典の使命が事実を記述するということであれば、それはある語を任意の品詞に分けることではなく、その語がどのような条件のもとでどのような機能を持って現れるかを記述することであろう。具体的には、辞書ではたとえばdochは、接続機能、心態機能、応答機能のような形で記述されるべきだということになるだろうし、文法ではそもそもどのような機能を立てるべきかが探られなければならないということになるだろう。

 どのような機能を立てるかということは、そもそも人間の言語にはどのような機能があるのかという普遍的なテーマと関わってくる。そこには、ある意味の語がどのようなメカニズムでさまざま機能を担って現れてくるのかという興味深い問題も含まれている。#13

 今後ドイツ語においても副詞がより深く研究され、副詞論が書かれるべきであろう。ここで述べたことがドイツ語副詞論への道しるべとなれば幸いである。その時にはこの小論もドイツ語副詞論のための序説となることができるだろう。この道しるべで道に迷わないことを願うばかりであるが、道しるべが正しいかどうかは進んでみなければわからない。


この論文は日本独文学会1993年度秋期研究発表会のシンポジウム「文法記述・辞書記述の諸問題」の中で「副詞の記述をめぐって」として報告したものに大幅な加筆を施したものである。加筆の際には、その準備段階及びシンポジウムの席上での議論を参考にした。ご参加いただいた方、ご意見をお寄せくださった方に心よりお礼申し上げたい。

#1 Engel(1991: 18)は名詞、限定詞、形容詞、代名詞の中にも、Milch, lauter, lila, prima, etwas, nichtsのように変化しないものがあることを指摘している。

#2 たとえばHentschel/Weydt(1990: 236)では、意味的分類として、場所、時、様態の他に、手段、疑問、因果、譲歩をあげている。

#3 vielleichtはふつうは単独で文頭要素となるが、次のような例もある。なお、3.5.も参照。

(i) deshalb vielleicht sagt sie, dassMonsieur noch lebt ... (Simmel, J.M.)

また、dochは次のような文が可能だが、この場合 doch das erste は一つの文肢となっているわけではない。これは並列の接続詞とされるもので、表では−とした。

(ii) >>Ein bisschen Musik<<, meinte sie, doch das erste, was wir hoerten, waren Nachrichten ueber das Unglueck auf dem Flughafen. (Simmel, J.M.)

#4 独々辞典のおける心態詞の扱いに関してはWolski(1986)に詳しい。独和辞典では小学館独和大辞典と大修館マイスター独和辞典が副詞の中で((話し手の主観的心情を反映して))((話し手の気持ち))などの表示をつけている。

#5 文アクセントのない心態詞についても日本語の対応表現を探ろうという試みはある。幸田(1985)、小坂(1992: 219ff.)などを参照。

#6 Helbig/Helbig(1993: 62ff.)は一次的に話し手の心的態度を表現するものと二次的に表現するものがあるとしている。それによるとwirklich, bestimmtなどはアクセントを持ったときに二次的なものになる。

#7 ただし、事実判断と価値判断の話法詞であれば同じ文で用いることは可能である。

(iii-a) Leider schlaeft Hans wahrscheinlich hier.

(iii-b) Wahrscheinlich schlaeft Hans leider hier. (Lang 1979: 205)

#8 ここで述べているのは「人には聞いていたけど自分で見てみるとすばらしいのは本当だった」という意味ではなく、何の前提もなく「まったく」という意味で使われる場合である。小学館独和大辞典では「実際に、現実に、事実、本当に」とは別語義として「まことに、全く」という訳語を当てている。本来のwirklichの機能は「話し手は命題が真実と一致していると判断している」(Helbig/Helbig 1993: 281)ことを表現するものであろうが、ここでのようにその形容詞の意味そのものが問題とされている場合があると思われる。つまり「その語の本当の意味で」ということを表わし、結果的にその形容詞の意味が前面に押し出されるのであろう。

#9 Helbig/Helbig(1993: 62ff.)では、話法詞のうちで周辺的な位置にあるものとして、wirklichのように二次的に心的態度を表現するもの、価値判断を表すもので-weiseという接尾辞を持つもの、そして-maessig, -gemaessという接尾辞を持つものをあげている。ただし、wirklichも文アクセントを持たない例では一次的な心的態度の表現としている。

#10 Sowinski(1969: 219)はpraktischが次のように話法詞として用いられることがあることを指摘している。

(iv) Dann muss ich also praktisch zwei Stunden warten.

なお、この語はSowinski(1969)の発表当時とは異なり、現在では多くの辞典にもその用法が記述されているが、Helbig/Helbig(1993)には取り上げられていない。

#11 Helbig/Helbig(1993: 67)ではこの他に-weise形の話法詞の中に疑問文で用いられるものがあるとしている。

#12 Hentschel/Weydt(1989: 13)でも次の文は認容不可能である。

(v-a) *Wie heisst du vielleicht?

ところがHelbig/Helbig(1993: 271)には次のような例がある。

(v-b) Wann kann ich Sie vielleicht in dieser Angelegenheit sprechen?

(v-c) Weshalb kann er die Arbeit vielleicht nicht uebernehmen?

これらは、先行する発話の中にvielleichtが使われていた場合などに可能であると思われる。なお、Helbig/Helbig(1993: 278)にはwahrscheinlichが補足疑問文に用いられた例もあがっており、これも同様のことであろう。

#13 たとえば、話法詞は話し手の心的態度の表現であるとき、文構造の中で特別な位置を占めていると考えられる。これについては井口(1986, 1987, 1992), Inokuchi(1991)を参照。

参考文献

例文出典