プロフィール

自己紹介


森脇健夫(1956年9月27日生まれ)

  1956年 千葉市にて生まれる
          父の仕事の関係で、京都(京都市)、神奈川(相模原市)、東京(杉並区)、と移る。
          幼稚園は確か「聖マリア幼稚園」だったと思う。断片的にしか記憶がない。
  1962年 東京都杉並区T小学校に入学
          N先生というおじいさんの先生だった。ぼーっとしている子だったと思う。オール4(当時は一年生も5段階相対評価)、だた。
          家の庭に高い水道塔があって、それにのぼった記憶がある。てっぺんの給水ポンプの上はスリルがあった。今から思えば、とても危なっかし           いことをしていた。
  1963年 鹿児島市Y小学校に転校(2年生)
          2年生の先生はK先生とい名前だった。鹿児島に来たときには、湿疹のような風土病にかかった。鹿児島弁のものすごさにびっくり。
          「うんだもしたーん」といきなり言われた。鹿児島、という土地にはやはり懐かしさがある。
          先日(2005.8.)に久しぶりに鹿児島を訪れた。天保山町という私の住んでいた場所は、一変していた。与次郎が浜は埋め立てられ、高層ホテ           ルが建っていた。この海で車リールを使ってキスやゴッババという魚を釣っていた。
          学校での自分は、落ち着きのない子だった。字も汚かった。
          親に言わせると「九九をおぼえなかった」のだそうだ。それは「別におぼえなくても困らないから」と言い張ったらしい。
          2年生の三学期、腎臓病で55日間入院した。その時の主治医がT先生だった。入院生活は小さな自分にとってとてもつらかった。どうやっ            たら家に帰れるか、そればかり考えていた。
  1964年  東京オリンピック、新幹線
          わざわざ新幹線に京都から名古屋まで乗りに行った記憶がある。東洋の魔女、三宅、円谷、アベベ・・・・みんなのヒーロー、ヒロインだった。世          の中は池田首相の所得倍増計画で道路があっという間に舗装されたり、田んぼがなくなったりで年ごとに風景が変わっていった。
  1969年   Y小学校卒業して私立L中学校入学
          小学校5,6年生のときにはけっこう勉強をした。塾には行かなかったが、模擬試験のようなものを受けてたし、勉強合宿のようなところへも出          かけた。
          その甲斐あってか当時でも有名なL中学校に入学することができた。
          小学校5,6年生の時の先生がS先生という先生で、音楽の専門の先生だった。ベートーベンと呼ばれていた。とても熱心にいろんなこと             を指導してくださった。
          よく叱られた思い出もある。授業中は邪魔な子どもだった。こんな子どもがいると、本当にやりにくかったと思う。
          6年生の最後の時期に体調を崩され、私たち7組は6つのクラスに分かれて暮らすことになった。今から考えると、そんなことはありえないよう          な話だ。
  1970年  自宅通学から寮生活へ
          父が東京に転勤することになり、中学校2年生のとき、カトリック寮というところに入った。日曜日の朝にミサがあったけど、それをどのようにさ           ぼるか考えていた。当時はラジオが唯一の外との交信手段だった
          。ベッドの中で深夜放送をみんな聞いていた。第一次ボーリンブブームが起こったのもこの年。朝5時に起きて、早朝ボーリングに出かけた。1          ゲーム100円だった。早朝ボーリング、Lの教師も来ていた。(to be continued)

  


趣味


最近思うこと


 すばらしい日本の自然を肌で感じることができるような時間を持ちたいなと考えています。カメラ片手にいろいろな場所を歩いてみたいと思っています。


私の研究

1.論文・著作など(工事中)


2.教材・授業づくりの玉手箱(新コーナー)


3.大学での講義


4. 天津師範大学との交流